「明暦の大火」からの復興
明暦3年(1657)1月18日から20日にかけて起きた大火(俗に「振袖火事」)は、江戸の町を壊滅(かいめつ)状態に追い込みました。都市部の約6割が焼失、死者の数も諸説ありますが、3万~10万人と言われています。当時の江戸の人口が約30万人だったことを考えると、いかにその被害が大きかったかがわかるでしょう。
この大火を契機(けいき)に、江戸の町は大きく姿を変えていきます。防災を重視した町づくりの始まりです。大名たちの屋敷や寺社を郊外へ移転。延焼を防ぐために、火除(ひよ)け地や広小路(ひろこうじ)と呼ばれる大きな通りや土手なども設けました。当初は町外れであった本所や深川が開発され、武蔵国(むさしのくに)と下総国(しもうさのくに)を結ぶ両国橋が架けられたのもこの時です。
こうして江戸の町の周辺部が都市化していきます。それまでお城を中心に2里四方を江戸の町としていましたが、4里四方へと大幅に拡大していったのです。(1里は約4Km)
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