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Q5 江戸城櫓上のしゃちほこの製作者である渡辺銅意(どうい)入道正俊について教えてほしい。

渡辺銅意について

「江戸城造営関係資料」の建築図面で鯱(しゃちほこ)は鴟吻(しふん)と記されている。TOKYOアーカイブ江戸城検索で櫓の鴟吻について検索する。
「江戸御本丸西丸御櫓唐銅鋳物鴟吻絵図」(請求記号6192-D2)
11種類の鴟吻の図を収めた巻子。天保9年(1838)甲良若狭の署名あり。渡辺銅意についての記述はなし。
「御本丸御書院渡御櫓唐銅鋳物鴟吻」(請求記号6192-D3)
一つの鴟吻詳細図。寸法、銅などの分量について注記(貼紙)。年代は不明。渡辺銅意についての記述はなし。
特別文庫所蔵資料では不明であるため、一般書により調査する。

資料1により、雑誌『うとう 24号;(青森郷土會)』に 木村捨三著「渡辺銅意正俊と其子近江太掾正次の作品」という論文があることがわかるが、当館未所蔵。
この論文は資料2にも収録されていないため、昭和女子大学に所蔵している雑誌により論文を読み、紹介されている資料を中心に人文科学室で調査した。記述のある資料は以下のとおり。

資料3 「生没年不詳。江戸前期の鋳物師。江戸の鋳物師の中の巨匠。・・・<中略>・・・ 子の正次は父との共作で名を残している」、と二列組みで9行の記述がある。

資料4 「生没年不詳。江戸前期の鋳物師。慶安2(1649)年から寛文1(1661)年在銘の作品が知られ、おおよその活躍時期が察せられる。はじめ京都に住し、のちに浅草に移住した」、と二列組みで10行の記述がある。

資料5 p.16〜17 十四 渡邊銅意正駿 御佛具師 法橋
18の短い記述が出典もついてあげられ、「この渡邊正俊は正俊、正駿二様あれども鋳工常習にて深くとがむべからず、初め洛陽のもの後江戸住となりしなり。子の近江太掾正次は延寶7年津軽藩に抱えられたる事後に出す」、とある。
同 p.25〜26 三十五 渡邊近江太掾源正次 浅草住 法橋銅意の子
11の記述があり、「正保三丙戌(1646)生まれなり。・・・<中略>・・・ 津軽にての歿年は五十九歳なるべし」、とある。

資料6 "江戸居住の鋳物師"の章の中「法橋の位のあるもの」のp.17〜18、「将軍廟の寶塔と燈臺」のp.37、「多数の遺作ある鋳師」p.79に「渡辺銅意」の名が散見される。

資料7 浅草を本貫とする鋳物師渡辺銅意正駿がいる。・・・<中略>・・・ 渡辺は親子2代で終わっているが、いずれも優れた鋳物師である。浅草工房は、隅田川沿いであろう。銅意と正次の作品の表がある。(13点)


  • 資料1 『日本人物文献目録』法政大学文学部史学研究室編 平凡社 1974(R2813/30/74;1122123333)
  • 資料2 『木村仙秀集 』全6巻 木村捨三著 青裳堂書店 1983 (日本書誌学大系 31(1))(/0208/5/1〜6)
  • 資料3 『コンサイス日本人名事典』 三省堂 2001 (R281.03/5052/2001;5003484533) p.1435
  • 資料4 『朝日 日本歴史人物事典』 朝日新聞社 1994 (R2813/3139/94;1127559680) p.1834 
  • 資料5 『江戸鋳師名譜/作品索引』香取秀眞著 1952 香取秀眞 (7564/4/52;1122442522)
  • 資料6 『鋳物師の話』 香取秀眞著 昭和22 大日本雄弁会講談社 (7564/8/47;1122442550)
  • 資料7 『日本のいもの-鋳物師の息吹-』山田泰生著 山田泰生 2004 (566.1/5011/2004;5010013333) p.263〜264

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