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Q4 紅葉山の霊廟は明治以降どうなったか。また、霊廟は「御霊屋」とどう違うか。紅葉山の霊廟には、6代将軍までが祀られているが、7代以降はどうなったか。

明治以降の紅葉山霊廟

資料1のp.166に、「明治元年十二月十九日朝廷徳川家達ニ命ジテ、紅葉山の霊屋ヲ撤セシム」とあり、根拠資料として『官中日記』『行政官御用留』『紅葉山原廟廃撤記』『海舟日記』『慶応四戊辰年間伝聞記』が挙がっている。資料2のp.115に、「明治元年12月19日に撤去が命ぜられ、明治2年3月から8月には撤去されている」とある。資料3のp.73に、「明治元年12月19日に撤去が命ぜられ、翌年の8月までに破却されたため、現在ではその痕跡をとどめていない」とある。

霊廟と御霊屋

資料4のp.260-261によると、「紅葉山に設けられた歴代将軍の廟を御霊屋という」とあり、また各将軍の霊廟がある上野寛永寺や芝増上寺に参詣した、として、これらの「葬地」が記入された表をあげている。

7代将軍以降の霊廟

資料5によると、6代までの霊廟は新たに作られたが、敷地に限りがあるので、7代以降は既存の各霊廟に合祀されたとある。「御城内紅葉山惣絵図」(請求記号6152-1)6代将軍(家宣)文昭院の霊廟がある。
「江戸城紅葉山御宮御霊屋勤方絵図」(請求記号6152-2)には各代の命日が記されており、6代霊廟には「十四日」(6代、正徳2年10月14日没)「晦日」(7代、享保元年4月30日没)とあり、6代霊廟に7代が合祀されていることがわかる。


  • 資料1 『東京市史稿 皇城篇 第4』東京市編 東京市 1918.11 (/0920/T727/T2-1-4;1124513042) p.166
  • 資料2 『江戸城 四海をしろしめす天下の府城』 学習研究社 1995.8 (歴史群像・名城シリ-ズ;7) (/5215/3294/95;1127875751) p.115
  • 資料3 『徳川幕府事典』 竹内誠編 東京堂出版 2003.7 (R/210.50/5133/2003;5007210134) p.73
  • 資料4 『図解・江戸城をよむ 大奥・中奥・表向』 深井雅海著 原書房 1997.3 (/2150/3229/97;1128379435) p.260-261
  • 資料5 『よみがえる江戸城 徹底復元 天下の巨城の全貌』 平井聖監修 学習研究社 2005.9 (歴史群像シリーズ・デラックス;1) (T/521.8/5022/2005;5011622189) p.121

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