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街頭紙芝居と子どもたち 畑中圭一

街頭紙芝居というのは、文字どおり、「街頭」つまり街なかで演じられる紙芝居です。自転車の荷台に舞台をのせた紙芝居屋さんが路地や公園にやって来て、子どもを集め、アメやセンベイなどのお菓子を売ります。そのお菓子を買った子どもだけが紙芝居を見ることができるのです。つまり、お菓子が見料というわけです。いま図書館や学校、幼稚園などで演じられる紙芝居は絵もことばも印刷されており、「印刷紙芝居」とか「教育紙芝居」と呼ばれていますが、その元になったのは街頭紙芝居でした。

いまから約70年前、昭和5(1930)年に、街頭紙芝居は東京で誕生したと言われています。(印刷紙芝居が現れるのは、その2年後です。)もっとも、それ以前にも紙芝居というものは存在していました。ただしそれは、うちわ状の紙の両面に人物を描き、それを黒幕の前で動かしながら演じる紙人形芝居で、「立絵(たちえ)」とも呼ばれていました。ペープサートと呼ばれる劇に似ていますが、明治期の中頃から大正期にかけて大道芸として人気を博したものです。この立絵の時代に、見料の代わりにお菓子を売るという営業方法が出来あがっていたようです。その紙人形紙芝居を、平面的な絵を連ねて演じるという形に転換させることで現在の紙芝居が誕生したわけです。そこで、立絵に対してこれを「平絵(ひらえ)」と呼んでいます。

さらにルーツを探っていくと、立絵の前身は幻灯を用いた寄席芸の「写し絵」(関西では「錦影絵」)であったと言われており、それを生み出したのはオランダから入ってきたレンズでした。また、平絵の誕生には大道芸の「のぞきからくり」や、お寺で行なわれた「絵解き」などの平面的な劇表現も影響しているものと思われます。「のぞきからくり」の場合はレンズを通して奥の絵を見る仕掛けになっていましたし、絵を見せながら語る「絵解き」のルーツがインドにあることは確実です。紙芝居は日本独特の児童文化財であり、日本人が創造した表現媒体だと言われますが、その源流を探っていくとアジアや欧米の文化と深いかかわりのあることがわかります。意外な奥の深さです。

さて、街頭紙芝居は誕生すると間もなく街の人気者となり、不況による失業者の増大ということもあって、紙芝居を演じる業者(以後、「業者」と呼びます)も急激に増えていきました。昭和10年に東京市社会局が出した『紙芝居に関する調査』によると、昭和9年末で「日本画劇教育協会」所属の貸元から紙芝居の絵を借りている業者は、1050人となっています。しかし、協会外の貸元から借りている業者を含めると、約2000人の業者が東京市内で営業していると述べたあと、同調査報告書は次のように指摘しています。

......仮りに一人の紙芝居業者が、一ケ所に集める子供の数を極めて少く計算して、三十人乃至五十人とし、業者の演出が一日十回とすると、(中略)之が二千人では、一日に六十万人乃至百万人の子供に接して種々の感化影響を与へてゐるのである。

さらに内山憲尚著『紙芝居精義』(東洋図書 1939年)の中の「全国紙芝居業者分布図(昭和11年現在)」によると、全国の業者数は9000人を越え、当時の台湾、朝鮮を含め、ほとんどの道府県で業者が営業をしていたことがわかります。

こうした紙芝居ブームは、第二次大戦終了直後にもう一度現れます。昭和27年の『全国児童文化会議参考資料』(文部省社会教育局)によると、同年七月現在の街頭紙芝居業者数は東京2000人、大阪1000人をはじめ、全国で7075人となっていますが、実際にはもっと多くの業者がいたものと思われます。3年後の『第3回子どもを守る文化会議資料』は、当時、全国の業者は2万人近いことを指摘しています。

しかし、テレビの普及などによって、昭和30年代後半に入ると街頭紙芝居は急激に衰退してしまいます。現在大阪府に20人近い業者が演じているほかは、全国ほとんどの地域で紙芝居屋さんの拍子木を聞くことはできなくなってしまいました。

このように街頭紙芝居は二度にわたるブームを引き起こして、全国の子どもたちの心をとらえたわけですが、当時の子どもたちは紙芝居をどのように楽しんでいたのでしょうか。以下、筆者が2000年に名古屋市およびその周辺地域の60歳以上の男女208名を対象におこなった「街頭紙芝居の受容に関する調査」の結果を中心に、全盛期における子どもたちの楽しみ方や関わり方をさぐってみようと思います。

まず、街頭紙芝居が盛んなころ、子どもたちはどのくらいの頻度で見ていたのでしょうか。この点については戦前と戦後の間に大差はなく、全体では「週2〜3回」が37.5%、「週1回」が28.0%で、10日に1回とか、月に1回というのは10%以下でした。しかし、「ほとんど毎日」見たと答えた人が14.9%いたことは注目すべきことです。当時の子どもたちがいかに紙芝居にのめり込んでいたかが、よく分かります。

さて、そのように子どもたちを惹きつけた街頭紙芝居の魅力とは何だったのでしょうか。その一つは《開放的で自由な雰囲気》ということです。すなわち、お菓子を食べながらリラックスして物語の世界へ入っていけるということ、先生も親もそばにいないのでのびのびと紙芝居を楽しめるということです。これが幼稚園などで演じられる印刷紙芝居と違う点です。したがって、街頭紙芝居の場合はこのお菓子が大事なはたらきをしています。子どもたちにとっては、紙芝居の世界に入って夢中になるのも楽しいことでしたが、それと同じくらいお菓子そのものに魅力を感じていたのです。筆者の調査には、数人の方の聞き取り調査も含まれていますが、その中の一人は次のように述べております。

紙芝居という言葉を聞いてまず頭に浮かぶのは、実は《水飴》なんです。割り箸に巻きつけた水飴をクルクルまわして、10人くらいで競争するんですよ、誰のがいちばん白くなるかって。それで勝った子はもう1本飴がもらえたんです。

アンケートの回答を見ても、紙芝居のタイトルや主人公の名前は忘れている人が多いのに、お菓子の種類については克明に書いてくれる人が多かったのです。街頭紙芝居の場合、子どもたちにとってドラマ体験とお菓子は一体化したものであったのです。

第2の魅力は《共に楽しむ喜び》ということです。集まってくる子どもたちは、同じ仲間だとは限りません。年齢も違います。が、いつも同じ場所で楽しんでいるという一種の連帯感があります。それがあるから、子どもたちは安心して紙芝居を楽しめるのです。同じようなお菓子を食べながら同じドラマを楽しむ、いわば《共食・共楽》の原理がはたらいているとも言えましょう。

また、ふれ合いという点では、演じる業者と子どもたちとのふれ合いを忘れてはなりません。街頭紙芝居の特徴の一つはその語りにあります。いわゆる裏書きは最小限の言葉なので、語り手がそれを自分なりにふくらませて演じます。子どもたちの反応に合わせてアレンジもするし、アドリヴも入る。声色の出し方も様々です。要するに語る言葉も、語り方もひとりひとり異なるのです。いやその都度ちがうと言うべきでしょう。つまり、観客である子どもたちと紙芝居屋さんとの心のふれ合い、交流・交歓によってドラマが進行していきます。したがって、両者のふれ合いは重要な意味を持っているのです。

もうひとつの魅力、それは《夢中にさせる娯楽性》と言えばよいでしょうか。街頭紙芝居は大きく分けると活劇、悲劇、漫画の3種類になります。活劇は時代劇、探偵・冒険もの、SFなどで男の子が好んで見たものです。悲劇はいわゆる「母もの」などの新派劇や名作物で女の子向けでした。これらのうち、子どもたちが数多く見たのはどんな種類だったのでしょうか。筆者の調査では時代劇がいちばん多く、全体の28%を占めました。そのほか漫画が23%、探偵もの17%で、この3つで全体の7割を占めました。活劇に人気が集まっていたことが分かります。

この時代劇に代表される活劇の特徴は、一つには「パターン化されたドラマ」であること、つまり誰にでも理解できる類型的人物が登場し、単純なストーリイで展開されること、勧善懲悪的なドラマが多いことなどです。二つ目には「超人的ヒーローの登場」です。危機一髪というところで強いヒーローが現れ、主人公が窮地を脱するという展開がストーリイの軸になっています。そして第3には「適度な刺激性」ということです。これが昂じるとエロ、グロという非難を浴びるわけですが、不特定の子どもが大勢集まるところで子どもたちを惹きつけるためには、絵の色調や人物像の描き方を含めて、ドラマ全体に適度な刺激が必要だったのです。このように見てくると、街頭紙芝居には大衆演劇やテレビの時代劇などと同様に大衆的文化の特徴がよく現れているということが分かります。要するに街頭紙芝居は子ども向けの《大道芸的大衆文化》だということができます。人間の生き様を描く、芸術的な香りの高い児童文学作品が重んじられるのは当然ですが、そういう《主食》に対する軽い《オヤツ》として、こうした大衆的児童文化があってもよいのではないでしょうか。

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