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おはなしとスライド上映 アストリッド・リンドグレーン 作品をたどる旅

平成18年度「子どもの読書に関する講座-公開講座」

講師 池田 正孝 氏

*この記録は、そのときのお話を、講師のご了承を得て児童青少年資料係でまとめたものです。

講師紹介

池田 正孝 氏

中央大学名誉教授、豊橋創造大学教授、東京子ども図書館評議員。世界各地の児童文学の舞台を紹介する講演を図書館などで開催している。
専門は中小企業論。

リンドグレーンの作品について

リンドグレーンは、1945年に『長くつ下のピッピ』を発表して以来、あふれるような想像力で、次々と新しい作品を生み出しました。
彼女が1990年代に入って白内障で目が見えなくなって筆を折るまで、全生涯で合わせて90冊以上の本を出版しました。それらは85ヶ国で翻訳され、合計すると発行部数は、1億3千万部になります。それらのいずれの作品も、豊かな想像力に裏打ちされており、独特の魅力を備えています。
リンドグレーンの作品を読んで驚くことは、これが一人の作家が書いたものかと思うほど多様なジャンルにわたっていること、しかもそれぞれが個性的で内容の豊かな作品であるということです。今、これらの作品の内容に沿って系統別に整理しますと、およそ4つのグループに分けることができるのではないかと思います。

池田正孝講師の講演写真

池田正孝講師

エネルギッシュな子どもを描いた作品

第一の系統は、『長くつ下のピッピ』や『やねの上のカールソン』のような奔放な空想力によって生み出された、エネルギッシュで生き生きとした子どもの生活を描いたものです。
『ピッピ』のおはなしは、リンドグレーンの小さな娘カーリンが『Pappa Långben』(パッパロングベーン = あしながおじさん)を『Pippi Långastrump』(ピッピロンガストルンプ = 長くつ下のピッピ)と言い換えて、この主人公を題材としたおはなしをせがんだことに始まります。そこで彼女は、毎晩娘に『ピッピ』のおはなしを続け、最終的にはこれらのおはなしを本にまとめて出版しようとしましたが、ピッピの生き方が奔放かつ奇想天外なものなので、どの出版社からも断られました。
そのため、出版は1945年まで延びましたが、これが出版されるや、子どもたちに熱狂的な歓迎を受けて、翌1946年には『ピッピ船にのる』、1948年には『ピッピ南の島へ』と作品が次々に生み出されました。

また『ピッピ』シリーズに続いて1955年に出版された『やねの上のカールソン』も、面白く風変わりな作品でした。カールソンは屋根の上の小さな家に住んでいる小さな太った男で、自由自在に空を飛び回り、どこにでも首を突っ込んで、好き勝手なことをするし、あまりに自信たっぷりで自分はなんでも世界一だと信じています。このカールソンが、ある家の末っ子リッレブルールと仲良しになっておはなしが展開します。
この二人の関係を、ある批評家は「子どもがこうしたいと思ういくつかの望みの実現だ」と言っています。そのように、カールソンはピッピと共通した特徴を備えているのです。

子どもの日常生活を暖かく描いた作品

第二の系統は『やかまし村』シリーズや『おもしろ荘』シリーズ、『エーミール』シリーズです。
これらは、第一の系統の作品のように奇想天外な事件は何ひとつ起こりませんが、子どもたちの日常生活の中で、特に兄弟たちや仲間、友だちとのやりとりが、実に生き生きと、しかも暖かく描かれています。リンドグレーンは子どもの世界を常に内側から、子どもの位置からユーモアたっぷりに描いて感動的です。
これらの作品は、今日ではますます稀になっているような子ども時代をよみがえらせ讃えています。かつて、幼い読者がリンドグレーンに「やかまし村は本当にあるのですか。だってもしあるなら、ウィーンにはもう居たくないのです」という手紙を書いたそうです。

少年少女の友情と冒険を描いた作品

第三の系統は『さすらいの孤児ラスムス』、『ラスムスくん英雄になる』、『名探偵カッレくん』シリーズなどの少年少女の友情と冒険の物語です。
これらの作品では、現代社会で起こるさまざまな事件を、冒険心に富んだ少年少女が挑戦し解決するプロセスを実に生き生きと描いています。

ファンタジックな作品

第四の系統は『親指こぞうニルス・カールソン』、『ミオよ わたしのミオ』、『小さいきょうだい』、『はるかな国の兄弟』などがあります。この系統は、これまでの系統とだいぶ趣を異にしています。
『はるかな国の兄弟』の訳者大塚勇三は、そのあとがき(「訳者のことば」)で次のように述べています。

リンドグレーンには、たいそう美しくて空想にあふれ、時には憂いをたたえて、心をゆするようなお話や物語があります。作者は、何年かのあいだをおきながら、そうした作品を発表してきました。それは、かかれた順でたどっていくと、短篇集の『親指こぞうニルス・カールソン』(1949年)、『ミオよ、わたしのミオ』(1954年)、四つの話をおさめた『小さいきょうだい』(1959年)ということになりましょうか。

こうしたお話の中で、例えば『親指こぞうニルス・カールソン』所収の『うすあかりの国』(『夕あかりの国』として絵本にもなっている)では、リンドグレーンは、寝たきりの少年が、不思議な小さい紳士に連れられて、楽に何でもできる世界に飛んでいくようすを話します。また『ミオよ、わたしのミオ』では、孤児として育った少年が父を慕って遥かな国に飛び、王子ミオとして、危険を冒しながら悪と戦うさまを美しく、また力づよく物語ります。
そして『はるかな国の兄弟』では、カール・レヨンイェッタが語る兄のことを聞き、一緒にはるかな緑の谷に飛んでいき、冒険や戦いに直面し、そのとき兄弟がどうしたかを聞くことになります。
作者は、つらいさだめをもった小さい主人公たちをあたたかく見まもり、そのよろこび、悲しみ、または勇気などをくっきりとえがいています。
私は、リンドグレーンのこの第四のグループの作品、ファンタジックに富んだこれらの作品が大好きです。特にこの最後の『はるかな国の兄弟』は、一番好きな作品です。

死の問題

『はるかな国の兄弟』では、リンドグレーンはたじろがず、子どもたちにまともに死の世界を語っています。たぶん、リンドグレーンは老境に入り、死の世界に近づくにつれて、子どもたちに死の問題を語らずにはいられなかったのではないかと思います。
もうひとつ、彼女が幼かったころのスウェーデンは、現代では想像もつかないくらい貧しい国でした。スウェーデンの貧しい人たちは、隣国のデンマークに出稼ぎに行っていたのです。そういう物語を映画にした『ペレ』というスウェーデンの映画があります。リンドグレーンは、昔の時代を振り返って、飢えと貧しさに打ちひしがれた幼い子どもたちに、深い愛情を込めて語らずにはいられなかったのではないかと思います。
この辺のこと、特に死の問題についてリンドグレーン自身がどんなふうに考えていたのか、ジョナサン・コットというジャーナリストとの対談の中から、少し紹介してみたいと思います。『はるかな国の兄弟』について質問をされると、彼女はこんなふうに答えています。

「ええ、この本はふしぎな生まれ方をしたんです。私は墓地を散歩するのが好きなんです。あそこに行って墓碑銘を読むと、とても心が休まるのです。そしてある日、こう書いてあるのを見ました。
『ここに幼き兄弟眠る』
それから他にも、兄弟が一緒に葬られているのを見つけました。姉妹というのはひとつもありませんでした。そこで私は、この子たちになにが起こったのだろう、なぜこんなに早く死ななければならなかったのだろうと思わずにはいられませんでした。そういう感じは持ったものの、それをどうしていいかわかりませんでした。その後、冬の朝早く、スウェーデンを列車で旅していて、雪の上に美しいバラ色の太陽が昇るのを眺めていたとき、突然、私の書きたいことがわかったのです。あらましではありましたけれど。
この物語が死ぬのをこわがっている子どもたちの慰めになってくれればいいと思いました。そういう子どもは大勢いますから。
私は小さい頃、死んだら天国に行くんだよといい聞かされていました。あまり嬉しいとは思わなかったけれど、ただ死んで土の下に寝るよりはましだと思ったものです。でも、私の孫たちはそんなことは信じちゃいない。孫のひとりが死を怖がっている様子だったので、この原稿を読ませたらニッコリしてこう言ったもんです。「まあね。どんなものだかわからないんだから、こんなものかもしれないね。」
『はるかな国の兄弟』について、お手紙をたくさんいただきました。大人の方からのもたくさんありました。その中の一通は、9歳のお嬢さんを白血病で亡くされたドイツの女医さんからのものでした。この年端もいかないお嬢さんは、生涯の最後の数年をこの本と共に過ごされて、それが唯一つの慰めだったということです。かわいがっていたウサギが2匹死んだときは、「ウサギたちは今、ナンギアラにいるのね。」と言ったんですって。おおぜいの子どもたちが、「もう、死ぬのはちっとも怖くありません。」と書いてきました。この本が、ただのおはなしにすぎないとしても、その人たちにだって、慰めが要るのではありませんか。

(詳しくは、ジョナサン・コット『子どもの本の8人』 晶文社刊 をご覧ください。)

スライド上映

この後、リンドグレーンゆかりの地を訪ねたスライドを上映し、池田先生の解説とともにリンドグレーンの世界を堪能しました。スライドは200枚近くにおよび、予定の1時間を越えて楽しいひとときを過ごしました。上映したスライドの内容を簡単にご紹介します。

ヴィンメルビー

最初に紹介するのは、リンドグレーンが生まれ育ったヴィンメルビーの町の様子です。町の広場に建つスタッツホテルは、2Fの広いところが『おもしろ荘』のダンスパーティーの場面の舞台となった場所です。
お菓子屋「ビーボ・アファーレ」はピッピが18キロのお菓子を買った場所でしょうか。駅近くのボートマンズ・バッケン通り周辺は、カッレがうろつくストゥール・ガータン街のモデルです。郊外墓地には、『はるかな国の兄弟』のモデルとなったファーレン兄弟の墓がありました。

リンドグレーンの生家

リンドグレーンが12歳まで住んだ家は、赤茶色のそれほど大きくない家です。近くにあるクリーム色の家が、リンドグレーンが12歳のときに引っ越して住んだ家で、『ピッピ』のごたごた荘の舞台です。
近くには、リンドグレーンの父親が土地を借りていた教会の牧師の家があります。この近くの大きな胡桃の木が、『ピッピ』のレモネードの木のモデルです。残念ながら、『ピッピ』が甘い飲み物を取り出したうろは木が倒れないようにセメントで埋められています。

ぺーラーヌ・セーヴェドストルプ

ペーラーヌはヴィンメルビーから西へ10キロ、リンドグレーンの両親が生まれた地域です。国内で現在使われているなかでは、最も古い木造教会があります。
セーヴェドストルプは、リンドグレーンの父が生まれた場所で、『やかまし村』の映画の舞台となりました。映画は、ここに残る3軒の木造の家を使い撮影されました。中屋敷は、内部を公開していました。

イエッベリード

カットフルト農場は、エーミールの家です。映画の撮影で使われた物置き小屋(とじこめ小屋の中)には、木の人形が本当に飾られています。しかし、エーミールの作品としては、ちょっと出来がよすぎるようです。
リンドグレーンが小さい頃よく訪ねた祖母の家を探すのは苦労しました。ここのブランコを写した写真が、リンドグレーン84歳の記念に出版された写真集『Mitt Smoland(私のスモーランド)』(*1)に載っており、近くまでタクシーで行って、通りかかったおじいさんに見てもらって、場所がわかりました。

アストリッド・リンドグレーン・ワールド

ヴィンメルビーにあるリンドグレーンのテーマパークには、年間25万人の来園があり、土日には寸劇も上演されています。
やかまし村やエーミールの家のミニチュアがあり、子どもが中に入れるようになっています。『はるかな国の兄弟』の桜の谷の舞台もありましたが、花は紙でできていました。突然音楽が鳴り、ピッピとそれを追いかける警官が通り抜けていきます。さすがに、警官を投げ飛ばす場面は見ることができないようです。

ストックホルム周辺

ユーニバッケンにはアストリッド・リンドグレーン博物館があります。リンドグレーンのお話の世界が体験できるようになっており、中にはごたごた荘、クッキーのベッドの様子なども再現されています。
グランド・ホテル前からでるヴァクスホルム島行きの船に乗ると、『私たちの島で』の世界を肌で感じることができると思います。
リンドグレーンは日よけのついている黄色い家に住んでいました。現在、一階にあるお店の日よけは、青と黄色になっています。「musslan」というこの店はなかなか有名で、おいしい海鮮料理が食べられます。
最後に、ストックホルム市立図書館の様子をご紹介します。子ども室にはリンドグレーンのコーナーもあり、いまでもリンドグレーンはスウェーデンの子どもたちに愛されています。

注記

*1 原書の綴りは、「Smoland」の「o」の上に、小さい丸が付いた文字ですが、ホームページ上では表示できません。ご了承ください。本文へ

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