猿若町芝居之略図(さるわかまちしばいのりゃくず)
渓斎英泉(けいさいえいせん) 画 天保13年(1842)頃 東京誌料 575-C14

 芝居町とも呼ばれた猿若町全体の様子をよく知ることのできる鳥瞰図です。天保13年(1842)、幕府の命により中村・市村の両座が、翌年には森田(守田)座の控櫓(ひかえやぐら 江戸三座が興業できない時、代わりに興行を許された劇場)である河原崎座が移転し、一大芝居町が形成されました。


 猿若町(台東区浅草6丁目あたり)は、南、北と南東に設けられた3ヶ所の木戸からのみ出入りできるという閉鎖された空間でした。町内には芝居小屋だけでなく、芝居茶屋、役者や芝居関係者の住宅、さらには料理屋、土産物屋、大道具屋、小道具屋などもありました。幕府はこの空間に芝居に関するあらゆる人やものを押し込めたのです。
 それまでは浅草聖天町と呼ばれていた町名も、江戸歌舞伎の始祖、初代中村(猿若)勘三郎が寛永元年(1624)猿若座を創立した場所であったことからこれを機に猿若町と改名されました。猿若町は一丁目から三丁目まであり、一丁目には中村座、二丁目には市村座、そして三丁目には森田(守田)座がありました。しかし明治になると森田(守田)座が明治5年新富町(中央区)へ、ほかの2座も鳥越町、下谷二長町(ともに台東区)へと移り、明治25年にはすべて市中へ移って芝居町としての役目を終えます。
 なお、この図は河原崎座の移転予定地である三丁目の部分が雲で隠されていることから、天保13年(1842)に刊行されたものと考えられています。

印刷する