山王御祭礼図(さんのうごさいれいず)
歌川国輝 (うたがわくにてる)画 天保(1830~1844)頃刊 東京誌料 331-C6

 江戸の町に夏の訪れを告げる「山王祭」が始まったのは江戸時代初期の頃です。山王とは日枝(ひえ)神社を指しますが、日枝神社は将軍家や江戸城の守護神として手厚く保護され、その祭礼は将軍が上覧する「天下祭」と呼ばれ、多くの見物客を集めました。


 本図は山王祭の壮大な山車(だし)行列が市中を進む様子を描いた3枚続の錦絵です。行列は山車と神輿(みこし)に分かれますが、当時は山車が中心で、各町が原則として恒例の主題をもとに人形や飾りを仕立てていました。第1番の大伝馬町(おおてんまちょう)は諫鼓鶏(かんこどり 善政が行われ、天下泰平の象徴)、第2番の南伝馬町は山王権現の使いである御幣(ごへい)をかついだ猿と決まっており、あとは年により多少異なります。ちなみに同じく天下祭と言われる神田祭も一番諫鼓、二番猿は同じですが、鶏や御幣の色が少し異なりました。
 山王権現の起原は古く、太田道灌(おおたどうかん)が江戸に築城する際、鎮護の神として川越の山王社を勧請(かんじょう)し、その後、徳川家康も山王権現を城内鎮守の社としたため、その祭礼である山王祭も「天下祭」となったのです。
 江戸三大祭のうちの二つとして豪華をきわめた山王祭と神田祭ですが、氏子の負担軽減のため、天和元年(1681)以降は、1年ごとに交代で行われる様になりました。

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