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「勧進大相撲」の誕生

東都名所 両国回向院境内全図 歌川広重画 天保13年(1842)

勧進相撲(かんじんずもう)とは、寺社の本堂や山門などの造営・修復に要する費用を捻出するため開催した相撲のこと。こうした勧進相撲は、戦国時代から散見され、江戸幕府成立当初も、京都、大坂、江戸を中心に全国各地で行われました。ところが、17世紀の中頃になると、たとえ目的が寺社の勧進であっても、社会の風紀を乱すなどの理由から、相撲興行が禁止されてしまいます。それにもかかわらず、土俵という画期的な発明などもあって、相撲人気は衰えず、元禄期になると幕府も勧進相撲を認めるように転換していきました。

再開されたばかりの勧進相撲は、晴天8日間の興行で、深川(ふかがわ)の富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)、本所(ほんじょ)の回向院(えこういん)、湯島(ゆしま)の天神社(てんじんしゃ)など府内各所で開催されました。この段階では、回向院は多くの開催場所のひとつに過ぎなかったのですが、天明年間から回向院での開催が多くなり、天保4年以降、回向院が江戸における大相撲の開催場所を独占するようになります。江戸における大相撲人気が高まったのは、谷風(たにかぜ)、小野川(おのがわ)、雷電(らいでん)などの名力士が活躍した天明~寛政期のことでした。勧進大相撲という言葉が生まれたのもこの頃のことと考えられています。
江戸時代、相撲興行を行う常設の小屋はなく、寺社の境内において行われていました。興行中の境内にはよしず張りの仮小屋が建てられます。その大きさは2階席、3階席まで設けられた巨大なもので、ここに大勢の観客が訪れ、ひいきの力士たちの取り組みを楽しんだのです。ただし、女性の見物は出来ず、許されるようになったのは明治時代に入ってからのことでした。

勧進大相撲土俵入之図 歌川国芳画

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